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< 青春真っ只中‼ 孫の バンドライブ >
長女の次男(成蹊大学理工学部3年)が学生仲間とバンドを組んでおり、音楽喫茶を借り切ってバンドライブを行いました。私の長男が中学時代から音楽に夢中となり、カリフォルニア大学在学中には米国人の若者たちとバンドを組み活動に熱心だったようです。その彼から古いエレキギターをプレゼントされた孫は高校に入るや、音楽に目覚めたようです。血筋は争えないというが、私自身も学生時代はビートルズにハマっていた。もっとも、上野の古レコード屋蓄響堂で買い集めて、プレーヤー聴くこと専門だったが、現在でも時おり聴き楽しんでいる。この大量のレコード、孫には、すでに彼が引き継ぐことを約束させられている😢(笑)
さて、今回ライブ演奏8曲のうちの1曲をお聞きください。曲名は「海の見える街」で、孫の作詞作曲です。画面の左手前で弾き語るのが、孫です。
(1班 Y・AMANO)
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鬼ゆず(鬼柚子)
大宮在住の友人から、赤ちゃんの頭ほどの「鬼柚子」を頂いた。畑で収穫したそうだ。こんなに大きな柚子は初めて目にした。さっそく調べてみたら、メルカリで2個セット3000円だって😲! 顔を近づけると、微かに甘酸っぱさが漂う。お正月に孫たちが揃ったら味わってみよう。孫たちの、びっくり顔と笑いが目に浮かぶ😊(11月26日) (1班 天野義弘)
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ト・レーチン
♪鄧 麗君(テレサ テン)の お墓にお参り😊♪
(1班 Y・AMANO)
15年ほど前、台湾支社へ出張の折、人気の観光スポット九分(チョウフン)を観光した時のこと。急に思い立って、テレサテンのお墓参りをしようとバスに乗った。ローカル線の最寄り駅からタクシーで30分ほどの丘陵地のテレサテン記念公園の奥まった一角に墓苑はあた。静まり返る公園内では、スピーカーからテレサのメドレー曲が四六時中流されている。神妙な面持ちで墓前に立った。合掌‼
私より8つ若かった彼女は、1995年5月、滞在先のタイ・チエンマイのホテルで、痰を喉に詰まらせるアクシデントで、不慮の事故死を遂げた。享年42歳、その他界はあまりに早すぎた。曲が四六時中流されている。神妙な面持ちで墓前に立った。合掌‼私より8つ若かった彼女は、1995年5月、滞在先のタイ・チエンマイのホテルで、痰を喉に詰まらせるアクシデントで、不慮の事故死を遂げた。享年42歳、その他界はあまりに早すぎた。
台湾、日本のみならず、アジア全域でもっとも活躍した歌姫だったが、C国の人権侵害に対して批判的な言動や行動をとったため、C国への入国は禁止にされた。逝去するまでの数年間は歌手活動を停止、表舞台から遠のいていため、すっかり話題になることはなくなっていた。そこへ、突然の訃報だった。
台湾出張で常宿ホテルのインショップで、何度かワイシャツをオーダーした。(4着で日本円10000円の格安)。顔なじみになった女性店主からテレサの親戚と知らされ、デビュー前の写真を見せられた時はビックリ。興味津々で出張の度に店主と話し込んだ。
日本テェビユー時のテレサを偶然TVで見た時、ふっくらとした容姿を、3人娘と云われて活躍する園まり、かと勘違いした記憶がある。1970年代初頭のことでその歌声にすっかり魅了させられた。不正ビザ発覚で日本への入国が禁止になった時期もあった。「空港」「時の流れに身をまかせ」など日本語で歌う曲も多いが、やはり「何日君再来」と、テレサにしては珍しく軽快なテンポで唄った「香港」が特に好きだった。当時大流行のソニー・ラジカセで、テープが擦り切れるほど聴いたものだ。もちろん、出張でテレサのテープ(台湾は安い)を買い込んだことは言うまでもない😊😊
鄧麗君(ト・レー・チン) 安らかに、おやすみなさい❣
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【52年ぶりで、小学校クラス会に出席】
*昭和33年・卒業記念撮影:最上段・左から4人目が本人
平成22年1月4日のクラス会
前列・右から3人目が恩師石田先生/ 最後列・左から4人目が本人
(2010.1.4)正月4日、
故郷の愛知県岡崎市へ、小学校のクラス会に出席するために帰郷。私にとっては52年ぶりのクラス会への出席であり、平成8年に母の葬儀を挙げて以来、10年ぶりの帰省でもあった。
上段は、卒業アルバムに掲載された集合写真。下段は、当日出席の23名での記念撮影。幹事の発案で、恩師を囲み卒業写真と同じ配置で並ぶ。懐かしさがこみ上げてきた。
戦時下の昭和20年生まれは、一番少ない学年で、3クラスしかなかった。会場に入り、先生に挨拶するも、相手間違えで「先生は隣だぞ!」で、みなさん大爆笑😲。宴が進むにつれて、旧友たちの面影が蘇ってきた。50年も経つと、みんなしっかりおじさん、おばさんしてる(笑)。寂しいことに、級友3人の他界を知らされる。話は尽きなかったが、お開きのあと、友人の車で菩提寺に立ち寄り、墓参りを済ませてから帰京の途に就いた。
長男でありながら大学進学以降,、故郷を離れ東京が終の棲家となる親不孝な人生を送ったが、故郷の友人たちとの52年ぶりの再会は忘れかけていた幼少時の記憶が次々と甦り、胸に焼き付ける一日だった。新幹線の車中、心地よさが脳裏を駆け巡っていた.。
(1班 Y・AMANO)
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